儘ならぬ癖に生まれつく

好き作品とかのメモ。TRPGが趣味。ネタバレしない主義。令和3年からボドゲ(麻雀)始めた。

推しを泣かせたがる人々

生意気娘とおっさんキャラが好きだ。

比較的外見が整った勝ち気な娘が追い詰められて、キャンキャン吠えているシーンが好きだ。

そんな強がりを見せていた彼女の心がぽっきり折れて、無様に泣いている様子を見ると、溢れんばかりの慈しみが沸いてしまう。

今はもうくたびれてしまった中年が、僅かな希望の光を掴もうと足掻く様は趣がある。

伸ばした手が宙をかき谷底に突き落とされるのも良いし、指先が温もりをとらえ、自分はようやく求めていたモノに届いたのだという満足感を得ながら、触れた指先から光と共に消えていく、なんてシチュエーションもサイコーだ。

 

それらに対してこのような欲求を抱くことは異常でもなんでもないどころか、筆者が「共感ヂカラが強く優しい人間」である、という証拠に他ならない。

 

…という、結論に持っていく為の、でっちあげこじつけを始める。

 

前提というか保険

前提①:「推し」は向こう側の存在

推しを泣かせたい。ここでいう推しとは「自分が存在しない世界に生きる、愛すべきキャラクター」

2次元3次元に係わらず、自分がいる場所は常に客席。彼らはTVやらステージやらで活躍する、隔たりの向こう側の存在、それを「推し」とする。

 

前提②:身に刻まれた妄執

「ニンゲンの設計は割とうまくできている」

これは誰に教わったわけでもなく、知識も根拠も何もなく、何時からか自身にこびり付いて取れなくなった妄執だ。本当に出所が全然わからん、でもそこにあるから仕方がない。

コイツが根底にあると、自身の心身の疑問を大体都合の良いように解釈できるので大変便利。オススメだ。

 

前提③:平和に生きたい

これは一般論ではなく、あくまでも自身の話。

電子の水洗便所ことTwitter君には近い思想を持つフォロワーがいるようにも見えなくもない。が、その水に浮いてる呟きに信ぴょう性もクソもないし、そもそもフォロワーは存在するのかも怪しい。

この後たびたび「ニンゲン」という主語を使うのだが、このブログに存在している生き物はニンゲンである筆者のみ、もし仮に他にいたとしても筆者以外の生き物は人間ではない、ということにするので、筆者=ニンゲンでなんら問題ない。

筆者は自称平和主義、不毛な殺し合いはしたくはない。

 

それっぽい話をしよう

ニンゲンは口をそろえて言う。

「推しに幸せになって欲しい、でも泣かせたい。」

幸せになって欲しいは分かる。

ニンゲンが知り合いやら異性やら子供やら、他人へ抱く正の感情は何れも種の繁栄に役立つ機能だ…と思っているので(妄執)、個人的にはトテモ納得できる。

 

泣かせると何が起こってしまうというのだろうか?萌えが起こる、決まっている。

萌え、それは「可哀想」「でもそんな顔も良い」「可愛い」という色々入り混じった滾り。

「可哀想」は相手の痛みを理解し(た気になり)共感をすることで得られる感情。「可愛い」「顔が良い」は、好意を抱く、なんなら庇護対象になりうる相手に沸く感想だ。

 

ニンゲンは集団生活で助け合う生き方を選んだイキモノ。助け合う為には、助けを求める弱者の存在に気付がつく共感ヂカラが必要とされる。

ニンゲンの個体毎に体格が違うように、共感ヂカラの種類や強さにも違いがあるのも当然、その多様性がより多くのニンゲン同士を助け合わせることができる…気がしてきませんか?

 

都合の良いゴール

推しを泣かせたがるニンゲンは、言い換えるなら「自分好みの相手の痛みに気付き、共感し、慈しめるニンゲン」と言える、言える気がしてくる。

我々の推しは銀幕の向こう側、どんなに同情しても共感しても、ストーリー上のコマである彼らへの干渉はままならない※

だがそんな彼らを慈しみ、愛せるニンゲンは、もし自分の隣にそのような境遇の実在ニンゲンがいたのなら、きっと手を差し伸べるのだろう。

 

なるほど、やはりニンゲンは良くできている

 

※所謂「うちの子」を積極的に泣かせに殺しにいくタイプもいるのは事実。

が、「ストーリー展開上仕方がなかった」と皆言うので仕方のないこと、仕方がないことには干渉できない(?)